即身成仏 / 悟りとは何か / 意味と内容を...完全解析 ≪
「即身成仏」とは現世にて、生きながらにして仏となることをいう。そして、この仏となるには「悟り」というものを得なければならない。この「悟り」とは、いったい何なのか。
まずは仏教の開祖、ブッダこと釈迦、ゴータマ・シッダッタの「悟り」の真実について書かせていただきます。2500年も前のお話、それは神秘的で、正にそこには「悟り」という世界のマジックがしかけられていたのでした。
まずは、釈迦、ゴータマ・シッダッタが「悟り」を得た過程を簡単に説明いたしましょう。
釈迦、ゴータマ・シッダッタは、「悟り」を得たいという願望のために6年もの激しい苦行を続けました。しかし、苦行で「悟り」を得ることは不可能と思い至り、苦行を放棄したのでした。
シッダッタは、苦行で弱りきった身体をネーランジャラー川で清め、岸のバニヤン樹の下に座っていた。すると、近くの村に住むスジャータという娘が偶然通りがかり、シッダッタと出会うのであった。
あまりにも弱りきり死にそうなシッダッタを見て、スジャータはまず村に戻り、当時とても高価であって栄養のある乳粥を作り、シッダッタに供養して救うのであった。
乳粥を口にしたシッダッタは正気を取り戻し、川の近く菩提樹の下に座り深い瞑想に入り、夜明けの明星が輝く頃「悟り」を開いたという。
一般的に語られているのが多少の違いがあるものの、このような感じです。マジックの答えを率直に言いましょう。この釈迦、ゴータマ・シッダッタの「悟り」とは...
スジャータ。
スジャータの愛ある行為こそが
「 悟り 」だったのです。
私は数ヶ月前、水子供養の記事で即身成仏という言葉を使い、即身成仏を詳しく説明する記事を作らねばと思い取り掛かりました。しかし、すぐに巨大なる聖壁にぶち当たることになったのでした。
即身成仏とは、生きながらにして仏となること。仏とは、悟りを得たもの。では悟りとは、という過程で見事に打ちのめされたのでありました。
悟りの内容は調べても調べても答えは曖昧で、仏教を研究する方ですら謎に包まれているという。知人の住職、僧侶に聞いても納得のいく答えは得られなかった。
毎日のように悟りのことを考え続け、一ヶ月以上が経ったころ、ふと...
「スジャータという娘は、この乳粥の供養の時にしか現れない。この娘を仏典に残す必要はあったのだろうか。別に書き残すまでもない..... いや、ま・さ・か」
当たりであった。
言語学、色々な国の言葉を勉強されている方がおり、実際にインドにある仏典という釈迦入滅後に仏教を文書化した聖典を独自に翻訳した方がおられたのでした。その方の内容を織り交ぜ、天からの強い波動にて脳天に届いたことをお伝えいたしましょう。
釈迦、ゴータマ・シッダッタの悟り
シッダッタは、スジャータの乳粥で助けられた後に、菩提樹の下で深い瞑想に入りました。
すると、ブラフマーという神・梵天が現れ「シッダッタ。お前は、すでに悟っておる。スジャータという女性が全てを教えてくれた。シッダッタ、これからはブッダと名を変えるのだ」と言われたという。そして、シッダッタは考えた。
悟りを得るための苦行としてやってきたが、断食とはなんとも辛い修行であった。飢えている人、貧しい人というのは私と同じように本当に辛いであろう。そして、他人から施しを受けたとき、こんなにもありがたさを感じ、愛を感じるものなのか...
悟りを得たいという欲望だけに囚われて6年もの間、自身の身体を痛めつけ苦行をしてきたが何も意味が無かった。ただの自分自身の欲望だけであった。
欲望...
それは私たち修行者にあってはならない煩悩そのもの。
それに比べ、あのスジャータという女性は純粋な気持ちと強い正義感で、とても高価な乳粥を他人の私に与え救ってくれた。その愛ある行為こそが.....
その愛ある行為こそが、ひとりの人間がこの地球上に存在している価値あることだったのだ。
なんという間違えを犯していたのだろう。私には、唯々悟りたいという欲望だけが先走り、他人に善意を尽くすという行為など忘れていた。
自分さえ良ければいい、自分さえ良ければ他人はどうでもいい。そのような私利私欲の人間など、この地球上に存在していても何ひとつ意味のない、存在価値もないことなのだ。
そしてこの地球上の人間、大宇宙の万物のものは全て互いに助け合い、共存することによって生きている価値というものがあり、この世の万物、大宇宙は成り立っているのだ。
それこそが「悟り」
生きとし生けるものの真理、大宇宙の真理。
そして、その真理、摂理から外れた行為、生き方をすることによって病気や苦しみが生まれる。この大宇宙には必要のない存在であることの証で因果の法則が働く。
しかし、真理に従って生きているのであれば人は苦しみとは無縁の存在となり常に進化するものとなるのだ。
また、因果の法則というのも単に病気や苦しみを与えるだけではなく、そこから学び、悟らせるために起きている現象であって、この世の万物を常に成長、進化させるための自然現象であり、大宇宙の真理に他ならない。
ついに悟った。 どんなことをしても、神仏に祈ったとしても、絶対に変えることや逃げ切ることのできない、この世のシステム・絶対不変の法則。それが大宇宙の真理・自然の摂理。
与えたものは、自身にも必ず与えられる。悪いことはもちろん。そして善い行いも。これこそが人々を苦しみから解放する法則だったのだ。
星の数ほどあるブッダこと釈迦、ゴータマ・シッダッタの悟りの本、ブログやサイトがあります。しかし、このスジャータこそ「悟り」の起爆剤ではないかと書かれているのは、私が見つけた中では仏典を独自に翻訳された方ともう1人しかおりませんでした。残念ながらお二人とも、仏教の無関係者であった。
このブッダこと釈迦、ゴータマ・シッダッタの「悟り」はスジャータという娘であったというのは仏典の翻訳間違えなのか、あえて悟りへのマジックが仕掛けられていたのかは謎に秘めている。
≪ 大乗仏教 ≫
明星
そして悟りへの過程の中で「夜明けの明星が輝く頃、悟りを開いたという」という言葉もありました。"明星"これもまた、仏典に書き残すまでもないことなので、弘法大師・空海と同現象が起きていたのだと推測します。
案の定、ブッダの悟りでも空海の悟り同様「明星が飛び込んできた」と書かれている方もいらっしゃいました。これが翻訳間違えなのか、もしくは信じられないことなので仏典にこう残したかは謎であります。
空海では「明星が飛び込んできて悟りを開いた」となっていて、これは神仏との一体化、繋がりができたことをいう。空海であれば虚空蔵菩薩、ブッダは梵天との結縁といい、神仏が衆生と縁を結ぶことを意味しています。
自然の摂理・大宇宙の真理を理解し、その「悟り」というものを世や人々に広める決意をした時、人々のために生きる決意をした時、身体に光明などが飛び込み、結縁という神仏と繋がる儀式が行われるのでしょう。
本当にそんなことがあるのかと思うはずです。しかし、私の師匠こと高山誓英住職の知人も、空海と同じ修行の虚空蔵求聞持法という修行時に、明星が飛び込んできたと語っておりました。
また、私自身も不動明王護摩行の時に、護摩の炎から女性の拳程の火の玉が左胸に飛び込んできたことがありました。実際に熱さも感じ、シャツが焼けているように見えたのですが実際は焦げてもいなかったのです。
しかし、それからというもの不可思議な現象が私の身に起きるようになったことは言うまでもないでしょう。
苦行
また苦行というものも、本当は苦行をして「苦しむ人々の気持ちを自分の肌で実感して、どう生きるべきかを悟る」というのが本来の目的だったとみられる。しかしそれを間違えて、苦行をすれば悟れるとなったようです。
苦行をして、苦しみや貧しさの苦しみを肌で実感し、この境遇の人々を救いたい、なくしたいと思わせ、そのために我々一人ひとりは存在しているということを認識させるための苦行であったといえましょう。
解脱への道 因縁生起と八正道
ブッダが説いた因縁生起、八正道、十二縁起などは、菩提樹での悟りの後に考えられたものといいます。もし、これらのことを瞬時に思いついたのであれば、フラッシュを差し込まれたパソコンと言っても過言ではない。
悟った後の数日間、瞑想をして余韻に浸ったと言われているが、その数日間にこの因縁生起や八正道などを考えたという、もっともらしい説もあります。
因縁生起とは苦しみが発生する原理を説いていて、八正道とは苦しみや悩みをなくすための方法を説いています。これは仏教徒でなくとも、私たち一般の人間でも実行すれば苦しみの世界から脱することができる手法であります。
因縁生起とは
因縁生起を略して縁起ともいいます。「生起」とは、物事が起こる現象のことをいう。「因」とは生起させる直接の原因であり、「縁」とは間接的な条件や原因を示している。
この「因」と「縁」が複雑に関わり合って、物事や出来事が生じたり滅したりすることを因縁生起という。
全ての現象は、人間が知り尽くせない原因と条件とが複雑に関わり合って物事の生滅が起きていて、独立的のものではない。条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。これを万物の生滅変化の理法ともいわれる。
この大宇宙、万物のものは、因と縁が複雑に関わり合いながら生起しているということは、ひとつのものが集まって全体を創っているのではなく、全てとの関係、関わり合いが全体だと仏教では説かれているのです。
人間や動物、昆虫、草や木、水や土などのひとつひとつのものは全体があるから存在することができていて、逆に個々の存在が世界を支えています。他との関係から独立した自己は存在しないという。これが仏教の根本的教理であり、ブッダの悟りの内容の一部であるという。
苦しみや病気などは、この因縁生起にて起きているといえます。この「大宇宙の真理」に反した生き方をしていると、苦しみや病気が生起するということです。
では、この「大宇宙の真理」に反しない生き方をするにはということで、八正道というブッダの教えが出てくるのです。
八正道とは
大宇宙の真理に従い、正しく生きることにより「涅槃」へ達することができるとブッダが説いた、人間が守るべき八つの行い。
「涅槃」とは、一切の悩み、苦しみから
脱した境地のことをいう。
この八正道の八つの戒律を守り、正しく生活していれば、必ずや身の変化を感じ取れることができ、人生が良い方向へ向かっているのが実感できます。
私たち人間を幸福に導くための手法であり、「涅槃」という境地への導きを約束してくれるものでしょう。
正しい見解
偏見や固定観念に執着せず、縁起の理法を見極めること。つまり、苦の発生の原因、苦をなくすこと、苦をなくすための手法や道理を理解することを正見という。
この正見だけは特別で以下の七種の正道によって実現される。 また、八正道は全て正見に納まるとされている。
正しい考え
思惟とは考えること、思考という意味で真実をありのままに正しく考えることであり「出離」「無瞋」「無害」を思惟することである。
離欲のことで名誉欲、財欲、色欲(性欲)などの欲から離れることをいう。
怒らないこと、怒り恨みをなくすことをいう。
万物、人や動物に悪い影響や害を与えないことをいう。
正しい言葉
正語とは「妄語」「綺語」「両舌」「悪口」を使わず、正しい言葉を使うことである。また、相手に対しての正しい言葉遣いも含む。
「妄語」嘘、偽りのこと
「綺語」真実に反した飾った言葉
「両舌」二人に異なることを言って争わせる言葉
正しい行い
・生き物を殺す殺生
・他人の物を盗む行為〔他人の妻、旦那も含む〕
・道徳に反する性的関係〔不倫も含む〕
などの悪いことをせず、正しい行為をすることをいう。
正しい生活
善行に努め、悪行や道徳に反する職業や仕事はせず
正当な生業を持って生活を営むことをいう。
正しい努力
精進とは、ひたすら努力し,励むことをいう。
未発生の不善は
これが生じないよう精進することである。
発生した不善は
これを解消するよう精進することである。
未発生の善は
これが生じるよう精進することである。
発生し成された善は
これが拡大するよう精進することである。
上記4つを正精進と呼ぶとブッダが説いたものです。
これらは因果律、因縁生起の実践的なことをいいます。
「不善」とは、よくないこと、悪いことを意味する。
「善」とは、良いこと、良い出来事を意味する。
正しい気持ち
念とは思い、気持ち、望みのことを意味する。
この正念とは、煩悩や邪念に負けず、常に仏道を心に思いとどめ、涅槃へと達する強い気持ちを持つことを意味します。
正しい集中力
智慧を得るための瞑想のことをいう。瞑想をすることにより、煩悩、感情の制御、高度な集中力、精神統一が身に備わり、智慧を得ることができる。
智慧とは、全ての物事や現象の背後にある道理を見極める精神、心を意味する仏教用語である。また仏教の般若と同等の意味合いで用いられる。
即身成仏とは、仏に近づくには
即身成仏とは簡単に言ってしまえば、「生きながらにして仏となる」というのが即身成仏。仏教の言葉では、「人間が生身のままで悟りを開き仏となる」ということで、真言密教の教義とも言われている。
仏には不動明王、阿弥陀如来、薬師如来、聖観世音菩薩、地蔵菩薩など様々な仏様がおります。この仏たちが存在する意味や役割はといいますと、全て「衆生という、生きとし生けるものを救うということのためだけに存在しております」ためだけにです。
我々人間が仏になる、仏に近づくとは正に、苦しむ者、飢えている者を助け、生きとし生けるもののために生きる。ということであり、悟りの内容であり、そこに自分自身の存在価値を見いだすことである。
超人的な能力、神通力を得るのが仏ではない。
苦行をしたところで
南無妙法蓮華経と唱えまくったところで
仏に成れるどころか
近づくことすらできないのである。
“ 即身成仏 ” 仏に成るとは
生きとし生けるもののために生きること。
これ以外に方法はないのである。
仏とは、そういうものだから.....
仏となるには、人々を本当に幸せにしたい。救いたい。助けたい。という清い心がなくてはならない。その清い心があれば自身は仏に近づくことができ、仏となり、仏の声を聞き、仏を見ることができるのです。
そんなことが可能なのかと思われるでしょう。
可能なのです。
実際、今は亡き、札幌の明王寺という先代のご住職は不動明王といつも会話をして生きていたという。その住職はいつも、苦しむ人々を救いたい、幸せにしたいと心から願って生きていたという。
あまり書きたくはないのですが、私自身も自殺を免れ、残りの人生は人のために使おうと決意し、寺に通い始めた頃から仏の声が聞こえるようになりました。あくまでも大事なとき、必要なときだけですが。信じる、信じないはお任せいたします。
お若い方は知らない人もいるかもしれないが、我々が生きたこの時代に神仏と会話をして生きた有名な方がおられます。
即身成仏、生きながらにして神仏となり、神仏と会話をし、神仏と共に生きた人物。最後にその方をご紹介して終わりにしたいと思います。
その方の名は...
Saint Teresa of Calcutta 【 聖マザー・テレサ 】
貧しい人の中でも、もっとも貧しい人々の救済に生涯を捧げた愛の使徒、聖マザー・テレサ。
私欲、名誉、富、全てを捨ててインド・コルカタで、病や貧困に苦しむ人々、老人、子供のために献身的な活動を行った人物。それは、カトリックの修道女という枠を超え、苦しむ人、貧しい人に幸せをもたらした神の化身とも言うべき聖女であった。
聖マザー・テレサ。カトリックであり、仏教の仏とは少しばかり名称が違うものの「即身成仏」生きながらにして神仏と化した者には変わりはない。
そんな彼女は神と会話をして、神の手となり、足となり、全てを神と共にして生きてきた。彼女の行動全てが神の意思によるものだとも語っている。
聖なる母、テレサのDVD《~母なるひとの言葉~》では、このように伝えている。
聖マザー・テレサも心が清くなれば神と会話し、神を見ることができると語っております。清くなれば...それは美しく、人間本来が持っている心、魂を目覚めさせることである。
悟りの内容でもある貧しさも苦しみも共に分かち合い、共に愛し、この地球という星で共存したいと願うのであれば、神仏は手を差し伸べることを物語っております。
彼女は、「祈る人はすべてが得られます。喜び、平和、愛、すべてが」と言っています。これは、喜びや愛を与えてくださいと神に祈るのとは少し違います。
これは、苦しむ人、貧しい人、この地球の全ての人々のために救いを祈ることであります。この清い心が、言葉となり、行動となり、人々に幸せをもたらし、祈る人に神は富をもたらすのでしょう。
PS. マザー・テレサを愛するあまり、本題からずれてマザー・テレサのことを詳しく書き過ぎてしまいました。ご興味がなければ「最後に」まで飛ばしていただければと思います。
Biography of Mother Teresa
【 聖マザー・テレサとは 】
〔名称〕 マザー・テレサ / コルカタの聖テレジア
〔本名〕 アグネス・ゴンジャ・ボワジュ
〔生年月日〕1910年8月26日
〔出身地〕 マケドニア(旧ユーゴスラビア)
〔人種〕 アルバニア人
〔活動領域〕インド、コルカタ(旧カルカッタ)
当時のコルカタは、人口1千万人 、 路上生活者40万人以上 、 ハンセン病患者30万人以上の人々が住む街であった。
〔活動内容〕自身でコルカタのスラム街を歩き回り、路上生活者の飢えている人にパンを与え、捨てられている子供、赤ちゃんを保護し施設へ連れて帰る。
路上で倒れウジが湧いている人、ネズミに食べられている人も保護し施設へと運び介護する。また、路上で死ぬ間際の人も施設に運び、亡くなるまで介護をし天国へと導く役目をする。これらの人はもちろん、どこの病院でも診てもくれない人たちです。
ネズミに食べられる人など、この日本では想像もつかないがコルカタでは当たり前のような出来事で皆、見て見ぬふりをして普通に通り過ぎていく。
そんな街で、裕福な家庭に生まれながらも、貧しい中でも最も貧しい人々に生涯を捧げた愛の使徒であります。
使徒とは / 神・イエスの神聖なる目的で遣わされた者のことをいう。
8月26日、裕福でありながらカトリックの信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた両親のもと生まれる。小さいころから聡明で、12歳の時には将来はインドで修道女として働きたいという願望を持っていた。
故郷スコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入る。
インドに渡り、修道女としてコルカタの聖マリア学院で地理と歴史の教師をしていたが、テレサの目にはいつもコルカタの貧しい人々の姿が映っていたという。
9月、休暇のため避暑地であるダージリンに向かう列車に乗っていた時に「全てを捨て、貧しい人々の中でも最も貧しい人々のそばで働き、人々を救いなさい」という啓示を受け、コルカタのスラムで働く決意をする。
修道院を出てコルカタのスラムで働く。最初にテレサは、インド女性の着る質素なサリーを身にまとい、学校へ行くことができない子供たちを集めて街頭での無料授業を行なった。
やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちが集まり、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。
厳しい清貧を守りつつ悲惨な境遇の人々に奉仕する「神の愛の宣教者会」を設立。
会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのない人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ということであった。
「死を待つ人の家」と、ハンセン病患者のための「平和の村」を設立。介護する相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。
ヨハネス23世教皇平和賞
ノーベル平和賞受賞
バーラト・ラトナ賞受賞(インドで国民に与えられる最高の賞)
エリザベス2世から優秀修道会賞受賞
アメリカ名誉市民に選ばれる。
9月5日、世界が見守る中、コルカタのマザー・ハウスにて87年の生涯を終えた。
亡きテレサに祈り、難病が治ったという2つの奇跡から「聖人」と認められることとなった。
テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123ヶ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病患者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。
宗派を問わずに全ての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として行われた。インド人でもない異国の人種であり、カトリックという異国の宗派である彼女の葬儀を国葬として行われたのであった。
その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなり、正に「全宗教の代表者」となったことを物語っている。
マザーの棺は陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進した。その時の映像を観ていただきたい。
この時代に生きた、神の化身の最後を...
感じる人には感じるはずです。聖マザー・テレサこそ即身成仏、神と化した人間だったと... また、わたしの時と同じように清い心の持ち主に、聖マザー・テレサが舞い降りてくることを心から願っています。
使用曲 神と人と -end of my dream- / BNSI
最近、聖なる母テレサのことを悪く言っている人たちがいらっしゃる。多分、テレサのビデオ、DVDを観たこともない可哀想なお方でありましょう。マスコミの話題を簡単に信じてしまう可哀想な人たち。
映像の部屋はテレサが最後まで使っていた部屋です。あの狭い部屋。シングルベット。そして、あのサンダルも。あのボロボロのサンダルをいつも履いていたせいで足の指が変形していました。
贅沢するくらいであれば飢えている人、苦しむ人のためにお金を使うという清い心を最後の最後まで、この世を去る最後の日まで突き通していました。
彼女の口座には、48億ものお金を隠し持っていたと?
果たして、彼女が亡くなり寄付が滞ったとき、123ヶ国600以上の施設、そしてこの地球という星の苦しむ人、貧しい人のことを考えると48億で足りるのでしょうか。いや数年持つかも分からない。
すべては、あの部屋とサンダルが物語っている。
最後に
今回の「悟り」「即身成仏」「コルカタの聖テレジア」を通して、人間が生きる意味、ひとりの人間がこの星に存在している意味をご理解いただけたらと思います。
苦しむ者、貧しい者を助け、共に分かち合い、共存する。生きとし生けるもののために生きる。これこそが我々一人ひとりが存在する意味であり「悟り」の真実でありました。
その清い心を持つことによって、神仏と繋がることができ、この地上生活での繁栄をもたらせることができるのです。
聖マザー・テレサのように生きなくてもいい。仕事を通して人々に幸福や喜びをもたらせばいい。そして、生きている間に1人でも2人でも貴方の愛によって救うことができたのであれば、貴方がこの地球という星に存在していた意味あることになります。
しかし、1人でも2人でも救うことができたのであれば素晴らしい幸福感を味わい、もっと人々を救いたいという願望が大きくなるはずです。
それは、人間という生きものの本能であり、人間の本当の姿であり、人間の心の奥深くに眠る「魂」という聖なるものの求めるところであるからです。
2018年、夏から取り掛かり何度も諦め挫折しながらでしたが無事、この記事を作成できたことに心から感謝いたします。
そして何よりも、「スジャータの愛ある行為こそが悟りであった」と確信することができ、ブッダの悟りの突破口となった、インドの仏典を独自に翻訳されたアメーバブログ、海外旅行便利帳の管理者様には心から敬意を表し、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。
≪ Seikou Tokuchi ≫
それは喉を潤すだけではなく、あなたの未来をより一層潤すこととなるでしょう。
≪ Mother Teresa ?≫